怒る
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電車
電車のへんな譲りあい
一般常識や概念について
一般常識や概念について
先日友人と話してた時に、“お金を追いかけるような人生は送りたくない”と友人が言った。
…なぜだろうか?人生のまだまだはじめだというのに、お金を追いかけるのが、ダメだとわかるのだろうか。それは一般常識や道徳的な判断ではないだろうか。
もちろん、実験物理の専攻だからといって、道徳心がないなんてことはないと信じたい。むしろ、いい人と呼ばれてるぐらいだ(それが道徳に繋がらないかもしれないが)
話を戻す。お金を追いかけるというものをカテゴライズしてみようと思った。
パターン1 獲得的
勤労、働くことでお金は得られる。増やすことは、ギャンブルなり株なりでできる。しかし、友人が言おうとしてたのはここだと思う。働くことに頭がいっぱいで他のことを忘れがちになるということらしい。
わからないこともない…しかし、完全に同意できない。なぜなら、仕事しか頭にないような人が仕事ができるかという疑問があるからだ。ほとんどの仕事、いや全ての仕事は人と関わる。つまり、仕事ができる人ほど人との付き合い方を心得ているし、それに喜びを感じているのではないだろうか?なら、家庭を持つことや人付き合いをすることにだって熱心なはずだ。
パターン2 守銭奴的
私の周りにも守銭奴な人は多い。この言葉を正しく理解していないかもしれないが、今あるお金を減らしたくない、あげたくない。そんな人のことを言うのだと思う。
それがそこまで悪いことではないとは思う。だが、これをこじらせると人のお金までに手を出す。降ってきたお金、つまり遺産などを多く貰おうとして他人との関係を不味くしてしまう。
考えてみた結果この2つしか思い浮かばなかったが、どちらも悪いところといいところがあったように思う。
いや、良い悪いは個人的感情だ。つまり、個人的感情こそ一般常識や概念において重要なことなのではないのか?
たとえば、お金を追いかけることについてならば。“お金を追いかけるのは醜い”や、“お金を持っている人が羨ましい”と思っているから、お金を追いかける人を非難するのだろうと思う。
私は別に個人的感情が悪いなど思ってない。集団で生きるからこそ個人的感情が芽生えるのだから、素晴らしいことだとさえ思う。
それより、一般常識や概念について、個人感情が混ざっていることを重々承知したうえで、述べなければならないことだ。
一般常識や概念を印籠が如く喋るのは気をつけなければならない。なぜなら、「常識ないなぁ!」と言ってる時ほど、相手に対する“個人的な感情”がそこにはあるからだ。
考える1
久々の更新
ついついサボってしまいました。考えをまとめるためにも書く癖をつけねば。
考えることについて
電車広告で、‘大学1年生のとき何をすればよかったか’というのがあって、
1位 勉強
2位 資格の所得
だった。
自分はどうなんだろうと考えたとき、後悔はたくさんあるけど、自分で考えて行動してることが少なかったなと感じた。優秀な彼女がいて、彼女について行ってしまって、下手をするのも怖くなっていた。今の進路があるのは彼女のおかけだけども。
さて本題
後悔と反省を別物と考えているんだけども、考えて行動しないと、後悔はできても反省は十分にできないんじゃないかと思う。後悔がダメだと思わない。むしろ、自分で選んだほうが後悔が大きくなるんじゃないかと思う。
でも、後悔も反省もどちらも経験しないと、選択肢は増えないような気がする。楽なほうを選ぶのが人間の性ってやつで、後悔がなければ、おそらく同じ選択肢や似たようなものを選ぶことがおおいのではないだろうか?
拒絶反応でもいいから違う選択肢を選ぶ勇気をくれるのが、後悔だったりするのかな。反省はそのときを進むためのコンパスみたいなものになるかもしれない。
塩タン、みそタン、マイたん
進捗
- 準備
- 電磁気学
準備
来週から実習なので、今週は準備に費やした。来週から、大変な毎日が続くだろう。そのなかでも、院試の勉強がしっかりできるように、健康管理と時間管理は大切にしていこう。
最近、海外の研究室も気になってきたので、いろいろ調べてみよう。